SELECTIONS

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《母子像 長崎の図》

制作年
1985年
サイズ
201×248.5㎝
素材
墨、岩絵具、紙

作品について

「原爆の図」シリーズの最後となる第15部「長崎」は1984年12月から長崎市の個人宅で描かれた。そのさなかに、長崎県教職員組合長が制作現場を訪れ、1983年に竣工する長崎県教育文化会館にふさわしい作品を制作してくれるよう丸木夫妻に依頼する。第15部「長崎」の完成後、埼玉の自宅に戻って1985年夏に制作されたのが本作である。この制作風景がアメリカの映画監督ジャン・ユンカーマンによるドキュメント映画「劫火」(1988年)に残されている。そこでは幼い子どもをモデルにして俊が人物を描き、墨による深遠な空間表現を位里が担当している様子が映されている。
周囲のモティーフを円状に配し、その中心に母子像を配置することによって、その存在がより強調されている。左腕で幼子を抱きかかえ、子をいたわるように右手をそっと添えた母の姿が印象的である。キリスト教とゆかりの深い長崎をモティーフにするにあたり、丸木夫妻の念頭には聖母子があったのかもしれない。

作家について

原爆の図 丸木美術館提供

(位里:1901年-1995年、俊:1912年-2000年)
広島出身の丸木位里(1901-1995)は、当初伝統的な日本画を学ぶが、次第に水墨を用いた前衛的な表現へと身を投じていく。一方で北海道出身の赤松俊子(1912-2000)は洋画を学び、モスクワへと渡って主に人物画に新境地を拓いた。その後両者は1941年に結婚する。
1945年8月6日に新型爆弾が広島に投下されたことを知った位里は、広島市三滝町に住む家族を案じ、疎開先の埼玉県浦和市からすぐさま列車で移動して8月9日頃に現地入りしている。また俊は位里の後を追って、8月20日頃に広島に到着した。想像を絶する町の惨状を目の当たりにした体験は、夫婦のその後の芸術活動を決定づけたといえる。丸木夫妻による合作「原爆の図」シリーズは、第1部「幽霊」が1950年に発表されたのを皮切りに、1982年発表の第15部《長崎》まで、実に30年以上をかけて制作された。特に1950年から始まったシリーズ初期三部作の全国巡回展は、占領下の日本において多くの人々に原爆被害を知らしめたという社会的に大きな意味を持つものとなった。その後、同シリーズは現在に至るまで国内外を問わず公開され続けている。

授業案

「五感をひらく作品鑑賞」

<ねらい>
丸木作品を通して戦争体験のない世代の子どもたちが五感を使って想像力を働かせ、人の痛みや苦し みを感じ取ったり作者の表現したかったことを自分なりに理解したりし、平和への探求心を育む一助とする。

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